この「他己(たこ)」という単語(造語)、
本当にどうでもいいことですが、
どこぞのお偉い学者さんや業界のお偉いさん達が
喧々諤々して
名付けたのか?(翻訳したのか?)
定かではありませんが、・・・
世の中の、多くのみんなが使っているとしても
自分では使いたくないことばの一つです。
推測でいろいろ言ってみる
このことば、
「自己理解」を深めるのを目的として(?)
新卒や就活生など
社会人の経験が少ない方たちへ
研修というかたちで一部でおこなわれているようです。
(調査不足のため、あくまでも推測です)
まずもって、
この「他己」という単語は
国語辞典(※)には載っていません。
(※2012年版:新明解国語辞典において。)
代案を考えてみる
「他人」と「自己」を短く(省略)したつもりなのでしょうか?
短く省略するなら「他人」の感想を「自分」でまとめる
「他自」のほうが自然です。
もしも、その概念で合っているのあれば、
「自他」と表現すれば済むはずです。
(「自他」は既に国語辞典に載っています。)
自他紹介
自他分析
でいいじゃん。
私は
自他ともに認める
甘党です。
【自】われ、自分 ←反対語→【他】他人
【己】おのれ その人自身。自分
〘代名詞〙イ、私 ロ、おまえ
代名詞としての
己(おのれ)の意味である
「おまえ」を含ませている
可能性は残るものの。
しかし、その場合、
代名詞として
使用するからこそ
言葉として意味を成し伝わるものです。
構造を考えてみる
他人が他人(おまえ)を分析するなら
どこまで行っても他人分析です。
はたまた、
百歩譲って
他人が己(おまえ)を評価するとした場合に
評価のポイントがズレまくっていたら
「あなたに評価されたとて・・・。」という
拍子抜けではないでしょうか?
自分にとって
気持ちの良い評価も
その反対の良くない評価も
しょせんただの
他人の評価です。
こう考えると、
「他己」という構造は
かなりの高い確率で
成立し得ません。
あるいは、
「他人」と「自己」を統合したつもりなのでしょうか?
「赤の他人」と「自己」は統合できません。
軽くけなしてみる
なぜ
タコ(他己)と造語したのでしょう?
私には寅さんにでてくる
タコ社長しか思い浮かびません。
今日は朝から、昼だった
どんより曇った日本晴れ
分析手法について考える
これからいろいろチャレンジする若者に、
他人の目なんか気にすんなよ。
余裕ありすぎなんだよ。
という評価を
私なんかは、してしまいます。
他人に聞いて
他人の目がふしあなだったら
人生台無しでしょうね。
人生そんなに長くねえんだぞ。
私の場合は、
自分でチャレンジしてみる前に、
他人の評価を聞くなんて
何か変に感じますし、
自分よりも他人を気にして、
社会に適合したいと
思いません。
「人からどう思われるかよりも、
自分が何をやりたいか、何をやったかしか
自分の中に残らないとしたら?」と
考えて見てほしいですね。
だいたいにして、
他人の良いところを
見つける力って
誰にでも備わっている能力じゃないからね。
なにか勘違いしておられる人が多いよね。
初対面で
必要以上に、親密な人には
彼我(※)の利害関係をよく考えましょう。
※彼我:相手がたと自分の方
変な大人に騙されないように・・・。
(若い時に騙された場合は、
年を重ねてから騙されるよりも
「良い社会勉強」として、
取り返しが効くという点で
まだましです。)
同じアドバイスでも
誰に言われるかで
受け取り方が大きく違う経験を
している方は多いと思います。
つまりこの事象は、
自分を分析する相手を
(無意識かもしれませんが)、
本能的に選んでいます。
他人の分析なんて
かなりの年月を一緒に過ごしてきて
いくつかの事象の中から
やっと、ひとつぐらい
説明できるものかなと
思うねえ。
私のような
凡人に
できることは
その人(他人)への
感謝だけなのよ。
分析手法そのものまでは
否定しないけど、
ヒアリングする相手を自分で
厳選してください。
ヒトには
自尊心が組み込まれていて、
成長の過程で
アイデンティティ(自己同一性)が確立して、
毎日のコンディションで
自尊心の高低が生まれて
同調(同意・受け入れ)したり、
反対に
反発(競争・拒絶)したり
する訳です。
他人の自尊心を言い当てるなんて
叶うはずもなく。
所詮、二元論が大好きな
占い師みたいな表面的なことを
やっているわけです。
あなたは、
〇○タイプね
結論「どうでもいい」
深く調査もせず、
ここまで書いてしまって、
もう取り返しがつかないが、
よくよく調査してみると
「バカ丸出し」は、この私である可能性もあります。
理由としての情報が
後からつけ加えられることもあるからです。
また、ここまでの思索の過程を
傍から冷静に観察すれば
まるで、ヒット曲の歌詞に
「いちゃもん」をつけるお客さんのようなものです。
たとえば、大好きな歌の歌詞でも、
韻を踏む都合上や
リズム上の不具合などを
解消するため、
(厳密に言うと、)意味不明な表現は
よく見受けられます。
皆さんも、歌詞に関しては、
あえて目くじらを立てるようなことはしません。
それよりも、曲の良いところに目を向けるわけです。
歌詞だからねぇ。
あまり、こだわっていると、
周りから「心が狭い人間」とみなされて
しまいます。
他者評価を修正しようとすると、
さらに「面倒くさい人」とみなされ、
修正コスト(労力)が高くつくように
見受けられます。
だいたいにして、
自分自身を知ることなど
永遠に出来ないとしたら?
自分なんて「ない」としたら?
自分自身を知らないことが
行動の源泉だとしたら?
そういう「考え方」から
人間的魅力は生まれる気がしています。
人間という生物は
未完成なもの。
以上、最後までご覧いただきありがとうございました。
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